谷中をぶらり途中下車:徳川慶喜墓
2007-03-27 17:00:00
谷中霊園付近の住宅は、趣のある古いタイプの家が多いですね。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
谷中寺町と谷中霊園
「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。
寛永年間(1624~43)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しかなかった。
そして、慶安年間(1648~51)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
幕末の慶応4年(1868)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。
谷中霊園は、明治5年(1872)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治7年(1874)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。
幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。
谷中霊園の中を敷地内の地図に従ってぐるぐるっと回って歩くと、徳川家最後の将軍、徳川慶喜のお墓はあります。歴代将軍の中で唯一、「徳川霊廟」には葬られなかった人物です。お墓は葵の御紋が付いた門で守られているため、中に入ることはできません。二つ並んでいる同じお墓の一つは、夫人の美賀子さんの墓だそうです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
東京都指定史跡
「徳川慶喜墓」
所在地 台東区谷中7
指 定 昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、初め一橋徳川家を継ぎ後見職として将軍家茂を補佐した。慶応2年(1866)第十五代将軍職を継いだが、翌年、大政を奉還、慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡した。その後駿府に隠棲し、大正2年(1913)11月22日に没した。
5,600平方メートル余りの墓城の中央からやや西南よりに葺石円墳状の墳墓がある。
平成2年3月31日
東京都教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
墓守の猫たち
「夕やけだんだん」など、谷中は猫が沢山いることでも有名ですが、墓地の中も例にもれず、ちょっと歩くと猫に出会うといった感じにそこかしこに猫がいます。しかし、谷中の猫は大きいですね。もっちりとした体型の猫が多かったです。
全生庵
明治13年(1880)に、勝海舟や高橋泥舟とともに「幕末の三舟」といわれる山岡鉄舟が開いたそうです。このお寺の墓地の中央には自身の大きな墓があるそう。また、ひいきにしていた噺家の三遊亭円朝の墓もその手前にあるのだそうです。この2人のお墓は、東京都指定旧跡になっています。このお寺では、毎年8月に「円朝忌(8月11日)」として、円朝がコレクションした円山応挙や月岡芳年などの幽霊画を公開するのです。今年こそ観に行きたいものです。
谷中探索1
酒屋も喫茶店も何か目を惹く「昔ながら」の建物です。左写真の酒屋の白い冷蔵庫(でしょうか?)の中には、キリンビールかなにかの同じラベルのビンが入っていました。周りに詰まれたビールケースすら絵になっていますね。真ん中は「カヤバ珈琲」です。何度か行ったことがあるのですが、可愛らしいおばあちゃん2人が切り盛りしている「昔ながらの喫茶店」といった感じでとてもステキなお店です。今日もここで休もうと思ったのに、「暫くの間お休みします」の張り紙が…。残念でした。写真右は、「愛玉子(オーギョーチイ)」のお店。台湾でしか取れない果実、愛玉を使った台湾ではおなじみのスイーツ「愛玉子」が食べられます。
谷中探索2
写真左の「EXPO」はアンティークショップです。万博グッズが沢山あります。マニアには堪らないお店と思われます。右は「SCAI THE BATHHOUSE」というギャラリーです。200年もの歴史を持つ「柏湯」という銭湯があったところをそのままギャラリーに改築されているので、至るところに銭湯だったころの面影があります。分かりにくいですが、煙突もあります。
公衆トイレの壁
EXPOの横の公園と谷中霊園あたりに2つほど見かけたのですが、なんだか可愛らしいオブジェが付いていました。
猫のいる喫茶店
三崎坂を降りて、元治元年(1864)から続く「江戸千代紙」や和の小物を扱うお店「いせ辰」でお買い物。オリジナルの便箋やポチ袋の可愛らしさにはつい手が伸びてしまいますね。ひと通り買い物を楽しんだあとは、喫茶店「乱歩゜」でひと休みしました。猫好きで江戸川乱歩ファンのご主人が切り盛りするお店は、猫の置物とか、マイルス・デイビスのポスターとか、ご主人好みなのでしょう。運が良ければ、看板猫の良介くんに会うこともできます。隣にいらしたお客様がリクエストされて、おこぼれで会うことができました。丸めがねも付けてくれてサービス満点です(笑)。その後も店内をウロウロとしていて、良介くんに癒されました。今回はカフェオレとレアチーズでひと息しました。次回はメニューに「まいうー」と書かれていたココアも飲んでみたいなぁ。あ、4月に船越英二郎のサスペンスドラマに出るそうですよ(店主さん談)。三崎坂を下りて不忍通りを挟むと向こうは江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」でおなじみの団子坂です。「弥生美術館」と「竹久夢二美術館」もそちらの方面にあります。谷中はいつ来ても飽きません。次回は、団子坂から本郷方面へ行きたいです。
Category : 上野・谷中桜が咲き始めた上野へ:不忍池
2007-03-24 17:00:00
清水観音寺をまっすぐ下りてくると、不忍池に着きます。曇り空の日に行ったせいか、どんよりと暗くて少し恐いですね。その昔、若い娘が池の前で姿を消してしまったり逢引している時に池に落ちてしまって溺死した若い2人が幽霊となって出てきたり…そんな怪奇現象もあったとか…。
弁天堂までの参道は屋台が沢山でていました。最近の屋台には韓国料理とかの国際派も増えて、結構食欲がそそられますよね。しかし、桜が咲き始めたとはいえまだ寒いこの時期にも金魚すくいは…まだ早いような、そんな気がしました。
左:不忍池の碑
中:弁天堂
右:大黒堂
不忍池は、太古の東京湾入江跡だそうです。上野山のことを「忍ヶ岡」というのに対し、不忍と名づけられたそうです。戦後に不忍池を埋め立てて野球場を建てる計画もあったそうですが、地元の人たちの反対によって中止になったそうです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
弁天堂
台東区上野公園2番
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し弁天堂を建立しました。
当初、弁天島へは小船で渡っていましたが、寛文年間(1661~72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八腎の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。
大祭は、9月の巳の日で、巳成金という。
平成10年3月
台東区教育委員会
この弁天堂のある中ノ島には何かの記念碑が沢山あります。その一部を紹介します。
写真左は「めがね之碑」です。中は「ふぐ供養碑」、なぜふぐ…。そして、右は「杵屋大三郎、同門会と書かれた碑」で、何のものかは分かりませんでした。
一番右写真の「スッポン感謝之塔」以外はイマイチなんの碑なのかが不明です。真ん中の写真の碑の前には、石造の琴があります。
写真左「東京自動車三十年会記念碑」で、写真中は楽器の糸を供養するための「いと塚」、写真右は「真友の碑」。もう何でもアリです。
「暦塚」、「芭蕉翁」、「包丁塚」…。包丁まで供養の対象になるのですね…。
「鳥塚」、「幕末之釼豪櫛淵虚沖軒之碑」などなど…。下記写真の碑は何の碑か判別できませんでした。ココらへんは、頼めば碑が建立できるのでしょうか?謎です…。
Category : 上野・谷中
桜が咲き始めた上野へ:西郷さん付近
2007-03-20 17:00:00
この建物がなんだったのかが分かりませんでした…。
彰義隊の墓
官軍の西郷隆盛から程近く、小道の脇に彰義隊の墓はあります。敵対していた人たちがこんなにも近くに…。この配置は一体なぜ?上野戦争が終わったときは、官軍に逆らったとして死体もそのまま晒されていたそうです。。。なんて惨い。江戸から明治に変わるころの上野って、多くの血が流れていたのですね…。しかも、このお墓がある辺りは一説によりますとゴミを溜めておくところだったとか…。そのようなお話を聞くと、なんだか悲しいですね。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
彰義隊の墓
15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)らは、慶応4年(1868)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり戦士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
天海僧正毛髪塔
天海僧正の半生(特に前半)には、謎が多いらしいです。「正体は明智光秀」などという説もあるとか…。ほんまかいな。。。しかし108歳とは、長生きですよね。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)
台東区上野公園一番
天海僧正は、江戸初期の天台宗に高僧で諡号を慈眼大師という。
天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。11歳で出家、14歳で比叡山に登り完全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権限号の勅許を計り、あわせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。
寛永20年(1643)に子院の本覚院にて 108歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。
平成15年3月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
清水観音堂
天海僧正により、京都の清水寺を模して造られたそうです。当時は京都のように「千年の都の安泰」にあやかって、京都の建物を見本としているものが多く建てられたそうです。ちなみに、寛永寺も比叡山延暦寺を写しとしているそうです。写真右はなんとなく昭和を彷彿とさせる「手水のつかいかた」イラスト。
左は下から見た清水観音堂です。確かに清水寺っぽいですね。右は、清水坂の碑です。清水観音堂を下りるとすぐ不忍池があります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
清水観音堂(国指定重要文化財)
台東区上野公園1番29号
清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100mあまり北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(1694)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、簗間4間、単層入母屋造り、木瓦葺、とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど、著名な景観である。
起因年老朽化が目立ち、平成2年より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年5月に完成した。この間、移築年代を元禄9年にする定説をくつがえす、元禄7年の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
本尊は千手観音坐像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は扇子内に安置するが、毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年9月25日には、奉納された人形を供養する行事がある。
平成10年3月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Category : 上野・谷中桜が咲き始めた上野へ:上野恩賜公園付近
2007-03-17 17:00:00
上野公園の敷地は、江戸時代ごろは徳川家の菩提寺である東叡山寛永寺があったそうです。明治6年に起きた戊辰戦争で、上野東照宮、清水観音堂、霊廟以外は焼け野原になってしまいます。その跡地には大学病院の建設が予定されていましたが、オランダの軍医であったボードワン博士が「自然の残る由緒ある土地なので公園にした方が良い」と提案され、上野公園が造られました。噴水池の辺りは、本堂の「根本中堂」が建っていたそうです。
正岡子規球場と句碑
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
春風や まりを投げたき 草の原
正岡子規(1867~1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。
平成18年7月
台東区・台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
摺鉢山古墳
気にしていなければ通り過ぎてしまうくらいひっそりとした古墳です。この階段を登ると普通に小さな公園があります。プチお花見を楽しむ人で賑わっていました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名づけられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円墳式の古墳と考えられている。
現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23m。後円部の道路との比高は5mである。
丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
五條天神の創立年代は不明であるが、堯恵法師は『北国紀行』になかで、文明19年(1487)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
契りきて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永8年(1631)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(1688~1703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
平成6年3月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
両大師
天保元年(1644)に寛永寺開山の慈眼大師天海の像を安置する堂として建立されたそうです。その後に比叡山十八世座主慈恵大師(元三大師とも呼ばれる)を合祀したことから両大師と呼ばれるようになったそうです。写真右の「旧寛永寺本坊表門」は上野戦争でも焼け残り、寛永期の建物として国の重要文化財に指定されています。切妻造り、本瓦葺き、潜門を脇につけた薬医門という様式であり、東京大学の赤門と同じ型だそうです。東京国立博物館が改築されるまでは、正門として使われていたそうです。
両大師から先に行くと、空き地にゴロゴロと燈籠がありました。奥のものとか…もうバラバラなのですが…このままで大丈夫なのでしょうか。「慶安5年 辰年」のもののようです。
近くにあった寒林院というところに同じような燈籠がありました。空き地のものが少しかわいそうな気がしてきました…。
「OBAKE-DORO」とその付近です。その付近にある燈籠に比べると、その大きさはよくわかります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻印し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北條氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大灯篭とともに、日本三代燈籠に数えられる。
平成8年7月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
時の鐘in上野公園
上野精養軒の横には「時の鐘」があります。つい先日、浅草の「時の鐘」を見てきたばっかりです。今でも指定された時間に鐘の音が鳴らされているようです。時計がある時代にも、時間の目安になって良いですよね。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
時の鐘
台東区上野公園4番
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。
初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山銅鐘」、反対側には、「天命七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
現在も鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回昔ながらの音色を響かせている。
なお、平成8年6月、環境庁の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。
平成8年6月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
上野精養軒の前には大仏山という小さな山があり、「大佛パコダ」という薬師三尊が祀られています。右写真は、顔だけが残ってしまった上野大仏です。顔だけが無傷で残ったので、災難よけの霊力があるといわれているそうです。そして最近では、顔だけしかないので「もう落ちない」という意味から合格祈願の大仏さまでもあるようです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
大仏パコダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光・月光二菩薩(旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革
寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃青銅の大仏に改鋳され。
大正12年、大震災で破損のため撤去する。
パコダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
昭和42年7月吉日竣工
東叡山 寛永寺
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
上野大仏略記
寛永8年(1631)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
青銅大仏
明暦・万治の頃(1655~1660)木食造浄雲師により銅佛に改められた。
仏殿
元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立された。
改鋳
天宝2年(1841年)火災に遭い、天宝14年、末孫堀丹後守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
大正12年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦に献納された。
昭和47年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
昭和47年春悲願
註、「上野大仏略史」は清水観音堂にあります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
花園神社
大仏山を降りて、公園方面へ歩いていくと左手に見えてきます。上野公園に桜を見にきたついでに寄ったと思われるカップルが多かったです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
花園稲荷神社の御縁起
御祭神 倉 稲 魂 命(うがのみたまのみこと。又の御名は豊受姫命伊勢外宮の大神)
大祭 4月11日
講祭 11月11日
祭日 毎月11・牛の日
御創祀(いわれ)
鎮座の年月・由緒は不明ですが、往古より此地にあり「穴の稲荷」または忍岡稲荷といわれました。
承応3年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この付近より北西1体が寛永寺のお花畑であったので明治6年は謎の稲荷と改名し昭和3年現社殿にお遷ししました。
旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。
安産の神とも云い、特に縁談、金談の願掛けにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。
花園稲荷神社
上野観光連盟
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Category : 上野・谷中桜が咲き始めた上野へ:銅像シリーズ
2007-03-13 17:00:00西郷隆盛像
上野公園といえば「西郷どん」の像ですね。JRの電車に乗っているときに、公園方面を見ていれば西郷どん見ることができるのですが見に来たことはありませんでした。今日が西郷さんと初対面です。この像は、詩人であり彫刻家でもあった高村光雲によって作られました。ちなみに「犬のツン(という名前だそうで…)」の像は、鹿児島から取り寄せられたもので、後藤貞行(皇居前広場の楠木正成像作者)の作品だそうです。この銅像が完成して、明治31年(1898)に除幕式を行った際に参列した西郷隆盛夫人のイトさんは、この風貌を見て嘆き、二度と像を見にくることはなかったそうです…。「こげん人じゃなかったと」といわれたとか…。それは顔が?それとも服装が??謎です。しかし、やはり女性の心理からしてこのバカボンの服装チックなところが問題だったのじゃないかと推測します。寝巻きっちゃ寝巻きぽいですよね…。ちなみにこの姿は、兎狩りをするときの格好だとか。何故そのようなシチュエーションの服装を選んだのか…。謎です。
小松宮彰仁親王銅像付近
左の写真の桜は結構咲いていましたが、上野公園の桜はまだ3分にも達していないのに、公園内は大にぎわいです。上野動物園も賑わっています。もともとこの地に寛永寺があった江戸時代から、花見の名所だったようです。しかし、当時は徳川家の菩薩寺である寛永寺のお膝元であったために飲食などは禁止されていたようですよ。公園となって大いに飲食も楽しめるようになったのは上野戦争でこの土地が焼け野原になってからで、花見シーズンになると空き地には花見茶屋などが建てられていたそうです。
小松宮彰仁親王銅像です。銅像ももちろんのこと、土台もとても立派ですね。場所がら仕方ないのでしょうが、この時期は銅像付近までも宴会場所になってしまうのですね。この周りでも花見を楽しむ人でいっぱいでした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園8番
彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
平成8年7月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
野口英世像
いまや「ターバン野口」でも御馴染、千円札の顔の偉人です。ちょっと分かりにくい木陰付近にありました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
野口英世銅像
台東区上野公園8番
野口英世は、明治9年11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。31年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、33年12月に渡米、37年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。
野口英世銅像は総高約4,5メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。
昭和26年3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和46年に会津会が設置したものである。
平成14年3月
台東区教育委員会
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
心残りは、上野公園の生みの親である「ボードワン博士像」を発見できなかったことです。今まで設置されていた銅像が博士の弟の写真を元に作られていたことが発覚し、平成18年(2006)に新たに本人の顔写真を元に作り替えられたいわくつきの「ボードワン博士像」、次回は必ず発見したいです。
~おまけ~
国立西洋美術館の彫刻シリーズです。美術館外に有名な彫刻が展示されています。美術館が開館している日は中庭で記念撮影も可能です。
左:アダム(1880年/オーギュスト・ロダン)
中:地獄の門(1880~1917年/オーギュスト・ロダン)
右:エヴァ(1881年頃/オーギュスト・ロダン)
左:カレーの市民(1884~1888年/オーギュスト・ロダン)
中:考える人(拡大作)(1880年・1902~1904年に拡大/オーギュスト・ロダン)
右:弓をひくヘラクレス(1909年/エミール=アントワーヌ・ブールデル)
~おまけのおまけ~
国立科学博物館新館に設置されたシロナガスクジラのオブジェ。なんと実物大だそうです。こういう大きさのものを見ると、人間なんてちっぽけ…と我に返ります。しかし、度重なる人間のシロナガスクジラ乱獲により、何十年も前から現在絶滅の危機に面しているそうです。悲しいものです…。
Category : 上野・谷中春の浅草観光:花やしきとその周辺
2007-03-10 17:00:00
嘉永6年(1853)から続く、日本最古の遊園地「花やしき」。造園師である森田六三郎により、牡丹や菊をはじめとした花の細工や四季の植物を鑑賞できる施設としてオープンしました。後々に、珍鳥や猛獣を飼育したり、見世物小屋的なものも増えたりしていったそうです。戦時中は一時閉園するも、戦後の昭和22年(1947)に再び開園し現在に至るそうです。昭和25年(1950)には、写真左にある「Beeタワー(当時は人工衛星塔という名前)」、昭和28年(1953)には、日本で現存する最古のジェットコースターとして有名な「ローラーコースター」が登場したのだそうです。この日も多くの人で賑わっていました。私の見る限りお年寄りとお孫さんと思しき子供連れが多かったです。激しいアトラクションが少ないから乗りやすいのでしょうね。
昭和39年(1964)から続く「浅草演芸ホール」、この日も落語や漫才などの演芸寄席が予定されていたようです。若かりし頃のビートたけしが出演していた「フランス座」は「東洋館」と名称を変更し、平成12年に改装オープンしたそうです。この演芸ホールの右隣から入場するそうですですが、正面しか見ていなくて気付きませんでした。。。
お昼にはうなぎを食べました。この「やっ古」というお店は、創業は寛政年間だそうです。大正ロマン漂うハイカラな内装で、雰囲気がとても良いです。右はお箸についていたイラストです。どことなく藤子不二雄のキャラクターみたいな感じですよね。
とても趣のある浅草寺周辺です。上を向いて歩くと、何か面白いものが発見できるかもしれません。一番右の「天国」の看板は、喫茶店「天国」のもの。「天国」と焼印のついたホットケーキやソーセージがパンからはみ出ているホットドッグなどの軽食が味わえます。歩き疲れて、一息つくのに良いお店ですね。「天国」と名前の入ったオリジナルグッズもとても可愛らしいです。
大衆食堂の写真は、花やしき裏のお店です。この付近には「ウインズ」があるので、競馬新聞片手にモツ煮込みを食べたりビールを飲んだりする方々がたくさんいらっしゃいました。「ホッピー通り」なんて粋な名前ですよね。次回来たときは、グルグルと浅草を巡って一杯ひっかけたいものです。
春の浅草観光:浅草寺の周辺
2007-03-06 17:00:00
浅草寺付近はお地蔵さまが色んなところに設置されています。宝蔵門からすぐ近くにあるのが、平和地蔵尊。戦没者供養のために建てられたようです。その平和地蔵尊の道を挟んで向こう側には、「二尊仏」という仏さまが2体ならんでおります。貞享4年(1687)に群馬県の高瀬善兵衛が寄進したものだそうです。右は母子地蔵尊です。大二次世界大戦中に満州で命を落とした母と子供の冥福を祈るために建設されたのだそうです。尊像発案者は、漫画家のちばてつや氏だそうです。
弁天堂と時の鐘
浅草にも、時を知らせる「時の鐘」があります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
時の鐘(浅草寺)
江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当時、江戸城内にあったが。江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九箇所でも時を知らせた。
鐘の大きさは、高さ1.1メートル、直径1.52メートル
鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、五代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大椽藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句、
花の雲 鐘は上野か 浅草か
は、あまりにも著名である。
昭和20年(1945)3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今もなお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年5月再建されたものである。
平成11年3月
台東区教育委員会
本堂から「二天門」を望む。もともと、二天門は、元和4年(1618)に、浅草寺境内に徳川家康を祀った東照宮が造られた際に、将軍参拝用の門として建設されたものだそうです。しかしこの東照宮は、寛永19年(1642)に焼失してしまって門だけが残ったそうです。その後、明治になってから鎌倉にある鶴岡八幡宮より「ニ天像」がこの門に移されたため名前を「二天門」としたそうです。しかしその像は、修理のために搬出されているときに戦火により焼失してしまいます。現在は、上野にある寛永寺厳有院霊廟勅額門にあった木造の「増長天」と「持国天」を安置しています。二天門は周辺の門や本堂が何度か焼失しているのにかろうじて無傷であり、現在は国の重要文化財に指定されています。また、増長天と持国天は都の有形文化財です。
この立派な五重塔もやはり焼失と再建を繰り返しております。現在の五重塔は、昭和48年(1973)に再建されたもの。慶安元年(1648)に建てられたときは、観音堂の東側にあったのだそうです。
Category : 浅草
春の浅草観光:浅草寺
2007-03-03 17:00:00
東京の観光地で有名なところといえば、浅草がまず挙がりますよね。昨今、「六本木ヒルズ」や「表参道ヒルズ」(ヒルズばっかりですね・笑)などのランドマークが建ち、だんだんと変化してきた東京の観光スポット。でもここは、昔からあまり変化がないようなそんな気がします。そういう「昔からある東京の風景」が楽しめる場所として、年中、国内外より観光客や参拝者が集まっています。江戸時代の浅草寺でも境内に見世物や大道芸があったり江戸後期には芝居小屋ができたりと、いつも人で賑わっていたそうです。そして、浅草といえばこの浅草寺の総門「雷門」にある提灯です。これだけで「浅草」とすぐ分かるという、浅草のシンボルマーク的存在ですね。
提灯の横にいるのが、下の「風神さま」と「雷神さま」の像です。雷門って、正式名称は「風雷神門」というのですね。略して「雷門」、これは江戸時代から呼ばれていたようです。門は、天慶3年(942)に平安時代中期の武将である平公雅(たいらのきんまさ)によって建設されたそうです。ちなみに前はここにはなく、隅田川のほとりにある「駒形堂」に建てられていたそうで、鎌倉期以後にこちらへ移されたそうです。2回の焼失と再建を経て、慶応元年(1865)にまた焼失…。その後、昭和35年になるまで95年の間も再建は見送りになっていたそうです。東京の観光地としてずっと長い間有名なのだと思っていましたが、明治・大正・昭和初期にはこの門は無かったのですね。ちなみに昭和になって再建したのは、松下電器の松下幸之助氏が寄進されたからだそうです。
左は雷神さま、右はリアル改源さんですね。風神さまは、風邪薬「改源」のCMでおなじみですよね。あの「おっちょこちょい」なイメージの改源さんには似ても似つかないような迫力&風格。雷神さま共々、おっかない印象です。ちなみに、ご存知ですか?ちょうちんの下には龍が彫られています(写真下左)。今まで何度か浅草は来ているのですが、恥ずかしながら初めて見ました。渡邉崇雲という方の作品だそうで、この雷門以外にも、仁王門、本堂、二天門、不動尊に設置されているちょうちんの底にそれぞれの龍の彫刻が見られるそうです。
雷門の裏には、天竜像(左)、金竜像(右)がおります。安置されたのは、昭和53年(1978)とつい最近なのですね。私より若いです。天竜像の目が今にもこちらを向きそうな雰囲気です。なんとなくアラジン風ですね。
仲見世通りです。ここから宝蔵門までの約140mの参道には、お土産品や雑貨品のお店ほかに、出来たてお菓子が味わえるお店があります。仲見世定番メニューの焼きたてお煎餅と揚げまんじゅうを食べました。そして、次に見えてくるのは、「宝蔵門」のはずだったのですが、現在改修工事を行っているため、白い布?で覆われていたために、見ることはできませんでした。残念です。
もくもくとお線香の煙が…。具合の悪いところに煙を浴びると、その部分が良くなるといわれているのですよね。誰がやりだしたのでしょうか、なんとなく疑問ですよね。
ついに浅草寺本堂に到着です。推古朝36年(628)に建立されたといわれる浅草寺は、長い間、焼失と再建を繰り返しており、慶安2年(1649)に三代目将軍の家光により再建されて明治には「国宝」に指定されたそうです。しかしその後、関東大震災の被害こそまぬがれたのですが、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼け落ちてしまいます。雷門もそうですが、仕方ないとはいえ本当にもったいないですね…。再び復興したのは昭和33年(1958)だったそうです。浅草寺は意外にも波乱万丈なお寺だったのですね。
秋の江戸城探索21~銅像:大村益次郎像~
2007-02-27 17:00:00
この銅像があるのは靖国神社の中です。あの大きな赤い鳥居をくぐって真っ直ぐいくとあります。あまりにも上に設置されているので、顔などが確認できないのが残念です。長州で生まれ育ち、もともと村田蔵六という名前の蘭学者であったが、桂小五郎により軍事の才能を見出されて反幕府戦争の総司令官に抜擢される。日本陸軍の基礎を築いた人物としても有名。京都で襲撃を受け、その傷がもとで亡くなったそう。
いわずもがな、靖国神社とは戦争で亡くなられた軍隊の方々を祭る神社です。これから春になると、桜の名所としても有名ですよね。夜はライトアップされて雰囲気も良いです。そういえば、去年お花見にいったときは人の多さにもうんざりはしたのですが、さながら出張割烹居酒屋のような進化した屋台があったのに驚きました。たこ焼きや焼きそばあめ細工ももちろんのこと、魚介類が氷の上に置かれていたり旬の食材が並んでいるという豪華な屋台からドネルケバブやタイフード系のものがあったり、王道&ゴージャス&グローバルな雰囲気が魅力的でした。今年も時間があればいってみたいです。
また近年、小泉元総理大臣が参拝して話題になっていたましたが、総理ではなくなった今年もやはり参拝にこられるのでしょうか。靖国神社のホームページには戦争で亡くなられた方々の遺書が掲載されているのですが、本当にこういうものを読むと戦争はあってはならないものだと改めて考えさせられますね。
Category : 江戸城秋の江戸城探索20~銅像:田安門~
2007-02-23 17:00:00
この写真は清水門から見た日本武道館です。日本武道館は東京オリンピックが開催されるときに造られたそうです。付近の北の丸公園は、近衛連隊の駐屯地があったところでもあり、公園内を探すと記念碑などがあります。もう日が暮れかけていたので発見したのですが写真をちゃんと取れませんでした。ちなみに、「近衛歩兵第二聯隊記念碑」は入り組んだところにあって分かりづらいのですが、「近衛歩兵第一聯隊記念碑」は武道館の売店真横にあるので見つけやすいですよ。
田安門です。こちらは日本武道館への入口としてもおなじみですね。先に北の門まで回ってきたのが運のツキ?のようで、もう日が暮れてしまいました。しかも、おりしも今日はコンサート開催日だったようで…この門の周りはダフ屋さんがゾロゾロといらっしゃいました。怒られてもアレなので、写真はギリギリ門上あたりを…。
この門ができるまで「田安台」という田園地帯があったそうです。そのために、御三家のひとつ、田安家は「田安」という名前にしたそうです。え~!ということは、清水門ももしかして逆でしょうか…。八代将軍、徳川吉宗の次男である宗武が田安家の初代当主だそうです。
Category : 江戸城footer ads here Powered by ちびログ
footer ads here


