Archive for January-2007

秋の江戸城探索6~天守台・明暦の大火~

2007-01-04 17:00:00



ここが天下の江戸城、天守閣があったところです。

現在は、土台である天守台しかありません。まさに「つわものどもが夢のあと」みたいな景色です…。もともとあった天守閣は、明暦3年(1657)「明暦の大火」で焼け落ちてしまいました。

「明暦の大火(振り袖火事)」とは、2日間で江戸の町の約6割が焼け野原になり、10万人もの人命が失われたといわれる江戸時代最大の火事で、ある振り袖に込められた呪いが原因だといわれています。ある娘が紫色の着物を着た少年に一目惚れをしてしまい、恋わずらいで病んでしまうことから物語が始まります。ご飯も食べずに寝込んでしまった娘の姿を不憫におもった両親は、紫色の着物を購入してあげたり、少年を探してあげたりするのですが、娘は少年に二度と会うことなく死んでしまうのです。その後、娘は紫色の着物と一緒に本妙寺というお寺に、両親によって手厚く葬られました。しかし、その1年後、2年後…娘と同じ年頃の娘が同じ日に葬式をしており、あの時と同じ紫色の着物も一緒に納められていたことを、毎年娘の命日でお寺に来ていた両親が不審に思い寺にたずねてみると、あの紫の着物は娘とは一緒に葬られてはおらず、売りに出されていたんです!知らずにその着物を手に入れた娘たちは、同じように病気になって死んでしまったそうです。盗人のような行為ですが、当時は納められた振り袖は無断で売ってしまっても構わなかったとか…。そして、この娘たちの供養がおこなわれて振り袖を焼くことになったのですが、その振り袖は、意思を持ったかの如く業火となって江戸を焼き尽くしたのだそうです。

なんと恐ろしい…そして可哀想な物語なのでしょうか。でもなんだか…信じがたい事件ですね。最初に亡くなった娘の呪いで何の罪も無い娘が2人も死んでいるし…。しかし、この「明暦の大火」には諸説あり、本当のところは分からないのですがこのような説もあるということで…。うーん、呪いというものは恐いですね。。。

Category : 江戸城

秋の江戸城探索7~天守台登りました~

2007-01-08 17:00:00



こちらが説明版です。
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~説明板より~
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。
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この坂を上りきると頂上です。


 
坂の途中で本丸を振り返ってみます。
いやー広いっ!大奥には1000人、多いときで3000人もの女性がいたときもあるとか!そのため、江戸周辺の町では女性不足(男性に対して女性が極端に少ない)に陥ったりもしたそうです。下町の女性はよりどりみどり?あぶれてしまった男性たちはなんだか気の毒ですよね。


 
着きました。真正面は大きな木が少し邪魔ですが、良い景色です。
 














反時計回りに回ってみます。


 
遠くに見えるのが東京駅付近のビルです。



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ふりだしに戻ります。
この天守閣が健在だった頃、千葉の房総半島からでも見ることができたそうですよ。この高台にあって6階建ての高さ、周りに特に大きな建物がなかったとしたら見ることは可能な気がしますよね。今は亡き天守閣、ここから将軍さまは何を思ったのでしょうか。
近年、江戸城の天守閣再建のお話もあるそうですよ。確かに再建されたら、東京のシンボルとして新しい観光スポットになりそうですよね。大阪の大阪城みたいなババーンとしたものを是非お願いしたいです。

Category : 江戸城

秋の江戸城探索8~桃華楽堂から北詰橋門~

2007-01-12 17:00:00

 引きで見た図

 間近で見た図

桃華楽堂です。
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~説明板より~
香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂で、1966年(昭和41年)に完成しました。八角形の建物で、屋根は、テッセンの花弁を形どっています。八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名されました。
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念のために…香淳皇后とは昭和天皇の皇后で、歴代の皇后中最長の在位であり、皇室内で97歳の最長寿としても知られる方です。
宮内庁式部職楽部におられた東儀秀樹さんも、この音楽堂で演奏されたりしたのかしら。と、のんびりと見てまわっていたら閉館時間が迫ってきたので大手門に戻れず、「北詰橋門」からでなくてはいけなくなりました。



こちらが内側から見た北詰橋門。



閉められる寸前・・・



出てすぐの夕暮れの景色です。綺麗ですよねー。水面に映った景色にまたため息がでます。お堀の方へ垂れた松が「ザ・江戸城」って感じです。



暫し、お堀沿いを散歩。



左手に見えます平らなビルが毎日新聞ビルです。
「御椿屋跡(おつきやあと)」だそうです。ここらへんには、江戸城中御用の米や餅をつくところとして知られる「御椿屋」があったんだとか。つくから「おつき」?



とても立派な橋が見えたので近くまできてみました。
「平川橋」、別名「平河門」だそうです。大奥の女中の通用門でもあったらしく、「局門」ともいわれたとか。ちなみに、罪人や死人はここから城の外へだされたそうですよ…。この橋の擬宝珠(きぼうしゅ:頭についている玉ねぎのような飾り)は、江戸城内の橋から集められたものらしいです。古いもので慶長19年(1614)の刻印があるそうですよ。

Category : 江戸城

秋の江戸城探索9~銅像:和気清麻呂~

2007-01-16 17:00:00



で、デカッ!!
首を90度曲げて見上げるほどのデカさ!!小さな公園内にひっそりと佇む立派な銅像。見た目とは対照的に、なんて寂しい雰囲気なのかしら…。



文字盤読めません…。
帰ってみて調べてみると、この方は名前を和気清麻呂といって奈良時代の女帝、称徳天皇が寵愛した皇位継承を狙う道鏡という僧から天皇の血族を守った人物だそうです。
称徳天皇から「道鏡を天皇に、とのお告げがあったから確認してくるように」と命令され、大分の宇佐八幡神社に出向きます。しかし渡されたお告げは称徳天皇が期待するものではなく「道鏡を天皇にしてはいけない」というもので、これを伝えて称徳天皇と道鏡の怒りを買ってしまいます。そして、名前を「別部穢麻呂」に変えられて大隈(鹿児島県)に島流しにされてしまったそうです。清麻呂から穢麻呂て、清い麻呂から穢い(きたない)麻呂ですよ。後に称徳天皇が亡くなられてから都へ戻るそうですが、なんとも「正直者はバカを見る」を地でいってるみたいな…。正しいことを伝えただけなのに…むくわれない人だったんですね。歴史で習ったことがない人のような気がするな~と思ったら、戦前の教科書では偉人として掲載されていたらしいのですが、戦後の教科書からは名前が消えてしまっている人物だそうです。

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秋の江戸城探索10~銅像:楠木正成~

2007-01-20 17:00:00

楠木正成像を見ました。この方も教科書から名前が消えた偉人として有名だそうで…。南北朝時代に後醍醐天皇を助けた「忠義の臣」として、以前は掲載されていたようですよ。天皇に従って武士中心の政治であった鎌倉幕府を倒して天皇中心の政治にするのに活躍したのですが、その後、その天皇中心に疑問を持った足利尊氏に「湊川の戦い」で敗れてしまったそうです。

皇居に向かってその銅像は建っておりました。

 引きで

 寄りで

すっごい迫力です!!!私が今まで見てきた銅像の中でトップレベルの素晴らしさ。今にも動き出しそうな雰囲気に震えます。なので、180度から見てみることにしました。

 

馬すら恐い…あまりの迫力に踏みつけられそうな感覚に…。



後ろから。ほえーカッコイイ!!

 ん?

 あれ?

 んんんー!?

馬の尻尾部分に鳥の巣発見。この威厳がある銅像の中に…なんというギャップ…。よく見たら、馬の足元には鳩が何羽かおりました。急にほのぼのした空気が漂ってきます。。。
鳩はいかがなものか…とは思いますが、鳩だってこの尻尾のからみ具合が巣作りに最高なのでしょうね。大きくなれよー!と像を後に。
近くの売店には、ぐい飲みや爪きりなどの「皇居見学記念」グッズ満載。観光地にはびこるご当地キティちゃん「楠木正成」バージョンもありました。こんなにいかついキティちゃん、買う人いるのだろうか…。こういう三流の空気を出すものってつい見てしまいますよね。なにやら皇居内売店で売られていたものとは一味違う気が…ここにあるグッズはもしかして全部非公式なのでしょうか。などと気にしつつ、皇居正門方面へ。

Category : 江戸城

秋の江戸城探索11~皇居正門~

2007-01-23 17:00:00



右を見ると、なんにもない、なんにもない、なんにもない…な風景ですが、



こちらは皇居正門前でございます。ほんとこの広々とした景色、圧巻です!植えられた松の木もキレイに整っております。



後ろを振り向くと丸の内。



二重橋です。手前の「正門石橋」。奥が「正門鉄橋」。といいます。
奥の橋がちゃんと写っていなかったです…。奥が「二重橋」なのに…。この「二重橋」という名前は、奥にある「正門鉄橋」が、その昔に木を使って二重構造で造られていたことからそう呼ばれたのだとか。手前と奥の橋があって「二重橋」というのだと思っていましたが、それは間違いだそうです。また、手前の「正門石橋」は水面に映る橋と橋が合わさって眼鏡のように見えるので、別名「めがね橋」ともいうそうです。



皇居警察の方たちが門を守っております。一切動きません。



ここが皇居正門。
皇居正門から先は、もちろん入れません。正月や天皇誕生日などの皇居一般参賀で入ることは可能で、ここから入るそうです。この門をくぐれるなんて…一度入ってみたいですよね。



奥に見えるのは、伏見櫓です。
伏見櫓とは、京都の伏見城にあった櫓をここに移築したことからそう呼ばれたそうです。関東大震災により一度倒壊しましたが、その後復元されたそうです。

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秋の江戸城探索12~桜田門~

2007-01-27 17:00:00

「桜田門」へ来ました。

 

左側が「外桜田門」、右側が「内桜田門」というそうです。
寛永13年(1636)に造られ、大正12年(1924)の関東大震災で一部が破損した際に鉄網土蔵造りに改修されているそうです。昭和36年(1961)、国の重要文化財に指定されました。
歴史上でも有名な「桜田門外の変」が起きた現場です。「安政の大獄」で反対派を弾圧した井伊直弼を、水戸や薩摩藩の浪士たちが襲って殺害したというあの事件ですね。当日は雪が降っていて、井伊直弼の警備をしていた人たちは合羽を着ていてすぐに刀が抜けない状態にあり、戦いに遅れを取ってしまったそう。護衛していた人も「え?今日―?」って感じだったのでしょうね。最終的には、井伊直弼の首を取った有村次左衛門をはじめとした多くの浪士側も含めて多くの人が闘死や自害、打ち首に…。一人の人を殺す為に多くの血が流れたとはやるせないです…。また、井伊直弼は跡継ぎを決めていない状態で殺されたのでその場合は御家断絶になるところを、当時、幕府が暗殺されたことを極秘にしておき養子縁組を結んでから病死したことにしたとか。そんなズルじゃないですか…。



おっと、高校野球児?皇居付近はマラソンする人が本当に多いですよね。京都では二条城もマラソンランナーが多いですね。お城は絶好のマラソンスポットなのでしょうか。







石碑がありました。ちなみに桜田門の中はこのような感じ。このお堀の向こう側は皇居ですね。堀にそって鴨たちが丸くなってます。こういう歴史ゆかりの地を訪ねると、今では残忍な事件があったとは思えないのほほんとしていて、この時代に生まれて良かったなぁと再認識しますね。

Category : 江戸城

秋の江戸城探索13~憲政会館~

2007-01-30 17:00:00

桜田門から少し歩くと「憲政記念館」があります。

 

ここらへんに、先ほどの桜田門で殺された「井伊直弼屋敷跡の碑」があるはずなのですが見つかりませんでした…。すっごい時間を掛けて探したのに…無念です。この「憲政記念館」その昔は武家屋敷で、井伊直弼をはじめ、江戸城を建築した太田道灌や豊臣秀吉の家臣として知られる加藤清正など、多くの歴史上有名人が住んでいたそうです。現在は永田町一丁目1だそうです。




上が井伊直弼屋敷があったころの地図。下は最近の永田町付近。

 

そしてここは、全国の水準原点だそうです。左側が「日本水準原点標庫」で右側が「水準点」です。
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~説明板より~
日本水準原点は、全国の土地の標高を決める基になるもので、明治24年5月国がここに設けたものです。
 水準原点の壱は、この建物の中にある台石に取り付けられた水晶版の目盛りの零線の中心で、その標高は24.4140メートルと定められています。この値は明治6年から長期になたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです。     建設省国土地理院
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~もう一つの説明板より~
東京都指定有形文化財(建造物)「日本水準原点標庫」
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)五月に水準原点として創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第一期生の佐立七次郎(1756~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は十四・九三㎡で、軒高三・七五m、総高四・三㎡。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンタープラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴付けられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。                   東京都教育委員会
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ひっそりとした場所にあるので、なんて無意味に素晴らしい建物に思えてしまいます。この「水準点」の碑はもっと寂しいところにあったので、本当にその碑なのかが気になるところです。

Category : 永田町

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