ひっそりとした江戸の遺跡「常磐橋門跡」

2006-11-21 17:00:00

あまりにも人気がなくさびしげな兜町辺りを早々に切り上げ、またもや三越方面へ。
休日のオフィス街とは打って変わり、三越は人が多いですね。
しかもセレブと思しき人ばかりでした。
テクテク歩いていると、なかなか時代を感じさせる橋をまた発見。
 
なんて書いてあるか読めません。
 

渡ってみました。

 
←常盤   ←常磐

「常磐橋門跡」だそうです。

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~説明版より~
この橋は常盤橋といい三代将軍家光の頃までは、大橋とも浅草口橋ともよばれました。
しかしその名はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門に命ぜられました。
市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常盤という名を献じました。「金葉集」の大夫典侍の歌に“色かへぬ松によそへて東路あずまじの常磐のはしにかかる藤波”とあり、その歌の心を松平の姓にかけためでたい名です。なお常磐と常盤の文字のちがいがみられます。
橋詰に北町奉行所があったこともあります。
関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。
現在の石橋は枡形ますがたに使っていた石を用いて、明治10年(1877)に改架した都内随一ずいいちの貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり城門の枡形の一部も現存しています。
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奥へ入って行きますと常盤橋公園があります。
この石垣が、江戸城の城門の枡形石垣の一部だそうです。
 
 
この城門を残すために尽力した澁澤榮一像。
 
 
日本橋を色々と散歩してみて、江戸時代から残っていたものはこれだけでした。。
ちなみ上のある常盤橋は車の通行はできません。
下の写真が、今現在の常盤橋です。
 
 
帰る前にもう一度三越前へ。
 
 
ゴール。
イルミネーションがとてもキレイでございました。
 

Category : 日本橋

日本橋・魚河岸から○○発祥系の土地を歩く

2006-11-18 17:00:00

「魚河岸発祥の碑」を探すも何故か見当たらず、江戸橋方面をウロウロ…。
江戸前のお寿司屋がありましたが、やはり休業日だったらしくなんの収穫もなし…。
日本橋は平日に来るに限りますね。

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~「江戸っ子のくらしと流行」より~
日本橋の魚河岸と江戸前の握り寿司 -庶民に受けた江戸のファーストフード-
 かつて日本橋には、家康入府と共に開かれた日本橋の魚市があり、江戸っ子の胃袋を満たしていました。
 江戸前寿司といわれる握り寿司は、文政年間から始まったといわれています。魚と米を発酵させる上方の押鮨に対して、江戸前は魚の種類が多い豊かな江戸湾でとれる新鮮な魚を使っているのが自慢でした。寿司種は刺身、白魚、玉子、穴子やこはだなどが使われ、種と飯の間にはわさびが入れられるという現代のスタイルと同じでした。
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さらに歩くと江戸橋を発見。
江戸橋は、創架が寛永8年(1631)だそうです。
日本橋と同じく上に首都高があり、景観は全然よくありません。
 
 

江戸橋を渡り、少し行くと日本橋郵便局があります。
「郵便発祥の地」↓
 
 
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~説明より~
明治4年3月1日(1871年4月20日)に新式郵政制度が発足したとき、駅遍司(現在の日本郵政公社)と東京の郵便役所(四日市郵便役所とも呼ばれ、現在の東京中央郵便局)が置かれたところです。
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発祥の地ならではの少し豪華な郵便ポスト。
 
「郵便は世界を結ぶ」わーしょいわーっしょい。
 
日本橋郵便局の裏を歩いていると「海運橋親柱」を発見。
 
 
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~説明より~
 開運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)忠勝の屋敷が置かれていたので、将監橋とか海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同8年(1875)に、長さ8間(約15メートル)、幅6間(約11メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和2年(1927)に鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年(1962)撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
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文中には「東京の新名所」と書かれるくらい橋がある頃は栄えていたそうですが、現在はとても静かな場所にひっそりと碑がありました。

 
「銀行発祥の地」記念碑。上記説明文の「第一国立銀行」が創立されたところ。
もう少し川の方へ歩いて行くと、「東京証券取引所」があります。
 


山王日枝神社。とてもこぢんまりとした神社です。本社は永田町の日枝神社。
この辺りは証券会社が多くいわばオフィス街だと思うのですが、休日ゆえ、ほとんど人通りがありませんでした。
コンビニを見つけましたが、コンビニさえもお休みでした。。
 

Category : 日本橋

お店に歴史あり、三越前付近

2006-11-15 17:00:00

 
上から読んでも下から読んでも山本山。「山本海苔店」は三越の前に本店があります。
山本山は元禄3年(1690)にお茶や紙類の商い店として初代山本嘉兵衛が江戸に出店したのがはじまり。
関東大震災や東京空襲での全焼を経て(なんて大変なんだ…)、昭和21年(1946)に日本橋に復活して今に至るそうです。
小さい頃から「梅の花」の缶を見て育っているので、“海苔のお店”としての認識しかなかったのだが、海苔の販売を始めたのは昭和22年(1947)になってからだそう。
 
 
山本山をすぎると、いかにも昔からあるような長屋のお店がありました。
ここら辺のお店には、「表店」と「裏長屋」という江戸町文化があるそうです。

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~「都市江戸の成り立ちとまちづくり」より~
『表店と裏長屋』
日本橋を中心とした江戸の町人地は、地形に合わせて基盤目状に町割されました。かつての町人地にあたる中央通り沿いには、今でも江戸の町割の名残を感じさせる区画が残っています。
1つの町屋敷は通りに面した店舗である「表店(おもてだな)」とその後ろにうなぎの寝床のようにつながる「裏長屋(うらながや)」で構成されていました。表店では商人が店を営み、裏長屋は職人や奉公人、浪人などが住む職住接近空間でした。
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このお店は、「大和屋」という鰹節のお店のようでした。
お休みだったので、情報が得られなくて残念。
 

少し歩くと「刃物の木屋」を発見。
木屋の創業は天正元年(1571)で、祖初代林九兵衛より加藤伊助が暖簾わけを許されたのが寛政4年(1792)だそう。本家木屋には「暖簾分けは許すが、本家と同じ商品を扱うことは許されない」と言うしきたりがあり、そのため、打刃物を扱うようになったと言われているそうです。
 
 
 
ちなみにそのお隣のお店は「タロー書房」という本屋。
看板のその自体ですぐ分かると思うんですが、故岡本太郎氏のデザインだそうです。
オーナーの方が親戚なんだそうですよ。

Category : 日本橋

日本国道路元標と江戸時代から続く三越

2006-11-12 17:00:00

 
東京の日本橋は「にほんばし」で、大阪の日本橋は「にっぽんばし」と言うのが正式な読みだそうだ。
そして、大阪の「日本橋一丁目」は通称「日本一」(にっぽんいち)と言うらしい。
なんと図々しい…。
となると、ここは「にほんいち」でよろしかったでしょうか。
どうでもいいですか、そうですか。
 
 
ちなみに「国分株式会社」という会社がありました。
 
 
前には「榮太樓總本鋪」と「黒江屋」があります。
「榮太樓總本鋪」安政4年(1857)創業の和菓子屋です。
「黒江屋」は、元禄2年(1689)の創業から300年以上続く、関東で一番古い漆器屋だそうです。
両店舗とも日曜日はお休みでした。
日本橋を渡ると、「日本国道路元標」があります。
 
 
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~説明版より~
 日本橋は慶長8年(1603)に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫におるものです。昭和47年(1972)、日本橋中央の「東京市道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、平成11年(1999)に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。
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ご存知、五街道の起点であられるところの証明道路元標ですね。
そして、ババーンと三越。こちらは新館です。
 
 
 
←いれぐい状態の三越マーク。

上の三越マークは魚河岸を表しているんでしょうか?
三越は、延宝元年(1673)に三井高利が「越後屋」として創業。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、明治37年(1904)に日本で初めての正式な百貨店となる。大正3年(1914)には鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行うも、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまう。昭和10年(1935)に増改築して現在の本館の形となり、平成16年(2004)に新館が出来て今に至るという。

定価販売を意味する『現銀(現金)掛値無し』と、江戸時代ではめずらしい商法を打ち出し大繁盛したそう。またこの高利(こうり、じゃなくて、たかとし)は金融業にも乗り出し、京都・大坂・江戸で両替商も営んでいたという。この両替店が現在の三井住友銀行であるそう。
 
 
三越前の中央三井信託銀行

「越後屋」と聞くと、「越後屋、そちもなかなかわるよのぉ~」というのはこのことかっ!て思ったんですけどね、実際は違うみたいです。
でもですね、言うても、江戸の錬金術師ですな。と思ったのは私だけじゃないハズ。
 

Category : 日本橋

「江戸日本橋ドリーム」見事に崩れる

2006-11-08 17:00:00

 
ぐるっと戻ってきて、ふとんでおなじみの西川発見。
近江八幡町に本店を構えながら、豊臣秀吉氏が滅亡した「大坂夏の陣」があった元和1年(1615)に江戸・日本橋一丁目に進出して、今年で創業440年だそうです。
寛永年間、2代目甚五郎がデザインした、萌黄色に染めて紅布の縁を付けた「近江蚊帳」を販売して人気を博したり、江戸町奉行に蚊帳問屋に指定されたりと、江戸の文化にしっかりと歴史を残していました。
「ふとんの西川」と言うくらいなので、ふとんの歴史が長いのかと思いきや、ふとんの販売を始めたのは明治時代になってからだそうです。
 
 
ふとんの西川の向かいに日本橋一丁目の標識が。
そして、その先には?
 
 
日本橋。キターーー!
 

日本橋。ドドーン。なんだか力強~い感じ。
 

 
にほんばし!ババーン(しつこい)。
ああ、これが日本橋かぁ~とか思っていた私にショッキングな話が。。
 
 
 
こちら、日本橋・日本橋由来記。

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~由来記より~
 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年(1911)に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42(1967)年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47(1972)年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成10(1998)年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年(1999)五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
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あらら、江戸時代に出来た建造物ではないようだ。
そりゃそうだ、今この時代まで江戸時代に作られている橋が残っていても、車が渡れないもんなぁ。
もう1つショッキングな光景が…。
 
 
なにこの突き抜けない感。
『富嶽三十六景』もあったもんじゃない!
首都高に覆われて、景色もなにもないですね。
北斎もガッカリだよ。
『富嶽三十六景 江戸日本橋』の夢、破れたり。

Category : 日本橋

波乱万丈伝:名水白木屋の井戸と今はなき白木屋デパート

2006-11-05 17:00:00

ハッキリ言って江戸初心者の私。
江戸時代がどういうものかから始めるのが、大事だ。
という訳で、今回は東海道の始点である日本橋へお出かけしてみた。
『東海道五十三次』の始まり=大事だ。という短絡的な考えからスタートした日本橋江戸歩きは、あまり知識もなくウロウロしていて不審者のようだったと思う…。

日本橋は、江戸時代には商業が大変栄えていて百貨店の三越やふとんの西川など、有名なところもこの界隈でスタートしたそう。
あ、西川は、もともと近江で商業を営んでいたのを、江戸・日本橋に支店を出したとのことでしたが。

地下鉄の日本橋駅を上がり、コレドを出るとなにやら行列が…。
あ!「たいめいけん」!!
 
 

というわけで、初タンポポオムライス体験である。
江戸そっちぬけでごめんなさい。
映画「タンポポ」をご覧になったことがある人ならご存知であろうあの「タンポポオムライス」に、私が~で・あったぁ~。
私が並んで数分後には、角を曲って最後尾の人が見えなくなるまで並んでいた…。
すごい人気だ、たいめいけん。
というわけでタンポポオムライス(伊丹十三風・1850円)はこちら
 
 →     

お値段が高かったというインパクトがありすぎ。
トロッとした玉子がトマトケチャップとチキンライスに絡まって旨味が増す。とても美味しいオムライスだった。
なぜかコールスローとボルシチが50円だった。。この50円は店主の良心の呵責か?
小さめサイズでオムライスと一緒に食べるとおなか一杯だ。
上の階にある「凧の博物館」はお休みだったので、食べて早々に江戸探索開始。
たいめいけんを少しコレド側に戻った後に、「名水白木屋の井戸」という碑を発見。
一緒に出掛けた母が「レッツエンジョイ!」とか言っていて、「おい、それはエンジョイ天狗だろう」と、しかも間違ってるだろうと…思いつつ、記念碑の説明を読む。
 
 

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~記念碑説明より~
 江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。
 正徳元年(1711)、白木屋二代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌2年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水がわ湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民ならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。
 白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを平成16年(2004)ここに移設再現したものです。
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今現在、その名水が残っていないというのは残念なことですね。
白木屋という呉服屋も、明治時代以降は百貨店として発展して、百貨店で初めてエレベーターを設置し話題になるなど日本を代表するデパートであったにも関わらず、昭和24年(1949)ごろから業績悪化。経営の乗っ取りが起こり、昭和31年(1956)に東急の傘下へ…かなり波乱万丈なデパートだったのですね。東急百貨店も平成11年(1999)に閉店して、その跡地はコレド日本橋となっています。

経営権がもめて乗っ取り劇を繰り広げた1人として、あのホテルニュージャパン経営者・横井英樹が有名。今で言う村上ファンドの人みたいなイメージでしょうか?
余談ですがラッパーのZEEBRAは横井英樹の孫ですね。
悪そうなやつはだいたい友達…というフレーズを思い出さずにはいられませんでした。

Category : 日本橋

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