2007-01-16 17:00:00

で、デカッ!!
首を90度曲げて見上げるほどのデカさ!!小さな公園内にひっそりと佇む立派な銅像。見た目とは対照的に、なんて寂しい雰囲気なのかしら…。

文字盤読めません…。
帰ってみて調べてみると、この方は名前を和気清麻呂といって奈良時代の女帝、称徳天皇が寵愛した皇位継承を狙う道鏡という僧から天皇の血族を守った人物だそうです。
称徳天皇から「道鏡を天皇に、とのお告げがあったから確認してくるように」と命令され、大分の宇佐八幡神社に出向きます。しかし渡されたお告げは称徳天皇が期待するものではなく「道鏡を天皇にしてはいけない」というもので、これを伝えて称徳天皇と道鏡の怒りを買ってしまいます。そして、名前を「別部穢麻呂」に変えられて大隈(鹿児島県)に島流しにされてしまったそうです。清麻呂から穢麻呂て、清い麻呂から穢い(きたない)麻呂ですよ。後に称徳天皇が亡くなられてから都へ戻るそうですが、なんとも「正直者はバカを見る」を地でいってるみたいな…。正しいことを伝えただけなのに…むくわれない人だったんですね。歴史で習ったことがない人のような気がするな~と思ったら、戦前の教科書では偉人として掲載されていたらしいのですが、戦後の教科書からは名前が消えてしまっている人物だそうです。
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江戸城
2007-01-12 17:00:00
引きで見た図
間近で見た図
桃華楽堂です。
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~説明板より~
香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂で、1966年(昭和41年)に完成しました。八角形の建物で、屋根は、テッセンの花弁を形どっています。八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名されました。
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念のために…香淳皇后とは昭和天皇の皇后で、歴代の皇后中最長の在位であり、皇室内で97歳の最長寿としても知られる方です。
宮内庁式部職楽部におられた東儀秀樹さんも、この音楽堂で演奏されたりしたのかしら。と、のんびりと見てまわっていたら閉館時間が迫ってきたので大手門に戻れず、「北詰橋門」からでなくてはいけなくなりました。

こちらが内側から見た北詰橋門。

閉められる寸前・・・

出てすぐの夕暮れの景色です。綺麗ですよねー。水面に映った景色にまたため息がでます。お堀の方へ垂れた松が「ザ・江戸城」って感じです。



暫し、お堀沿いを散歩。

左手に見えます平らなビルが毎日新聞ビルです。
「御椿屋跡(おつきやあと)」だそうです。ここらへんには、江戸城中御用の米や餅をつくところとして知られる「御椿屋」があったんだとか。つくから「おつき」?



とても立派な橋が見えたので近くまできてみました。
「平川橋」、別名「平河門」だそうです。大奥の女中の通用門でもあったらしく、「局門」ともいわれたとか。ちなみに、罪人や死人はここから城の外へだされたそうですよ…。この橋の擬宝珠(きぼうしゅ:頭についている玉ねぎのような飾り)は、江戸城内の橋から集められたものらしいです。古いもので慶長19年(1614)の刻印があるそうですよ。
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江戸城
2007-01-08 17:00:00

こちらが説明版です。
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~説明板より~
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。
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この坂を上りきると頂上です。

坂の途中で本丸を振り返ってみます。
いやー広いっ!大奥には1000人、多いときで3000人もの女性がいたときもあるとか!そのため、江戸周辺の町では女性不足(男性に対して女性が極端に少ない)に陥ったりもしたそうです。下町の女性はよりどりみどり?あぶれてしまった男性たちはなんだか気の毒ですよね。

着きました。真正面は大きな木が少し邪魔ですが、良い景色です。

↓

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↓

反時計回りに回ってみます。

遠くに見えるのが東京駅付近のビルです。

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ふりだしに戻ります。
この天守閣が健在だった頃、千葉の房総半島からでも見ることができたそうですよ。この高台にあって6階建ての高さ、周りに特に大きな建物がなかったとしたら見ることは可能な気がしますよね。今は亡き天守閣、ここから将軍さまは何を思ったのでしょうか。
近年、江戸城の天守閣再建のお話もあるそうですよ。確かに再建されたら、東京のシンボルとして新しい観光スポットになりそうですよね。大阪の大阪城みたいなババーンとしたものを是非お願いしたいです。
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江戸城
2007-01-04 17:00:00

ここが天下の江戸城、天守閣があったところです。
現在は、土台である天守台しかありません。まさに「つわものどもが夢のあと」みたいな景色です…。もともとあった天守閣は、明暦3年(1657)「明暦の大火」で焼け落ちてしまいました。
「明暦の大火(振り袖火事)」とは、2日間で江戸の町の約6割が焼け野原になり、10万人もの人命が失われたといわれる江戸時代最大の火事で、ある振り袖に込められた呪いが原因だといわれています。ある娘が紫色の着物を着た少年に一目惚れをしてしまい、恋わずらいで病んでしまうことから物語が始まります。ご飯も食べずに寝込んでしまった娘の姿を不憫におもった両親は、紫色の着物を購入してあげたり、少年を探してあげたりするのですが、娘は少年に二度と会うことなく死んでしまうのです。その後、娘は紫色の着物と一緒に本妙寺というお寺に、両親によって手厚く葬られました。しかし、その1年後、2年後…娘と同じ年頃の娘が同じ日に葬式をしており、あの時と同じ紫色の着物も一緒に納められていたことを、毎年娘の命日でお寺に来ていた両親が不審に思い寺にたずねてみると、あの紫の着物は娘とは一緒に葬られてはおらず、売りに出されていたんです!知らずにその着物を手に入れた娘たちは、同じように病気になって死んでしまったそうです。盗人のような行為ですが、当時は納められた振り袖は無断で売ってしまっても構わなかったとか…。そして、この娘たちの供養がおこなわれて振り袖を焼くことになったのですが、その振り袖は、意思を持ったかの如く業火となって江戸を焼き尽くしたのだそうです。
なんと恐ろしい…そして可哀想な物語なのでしょうか。でもなんだか…信じがたい事件ですね。最初に亡くなった娘の呪いで何の罪も無い娘が2人も死んでいるし…。しかし、この「明暦の大火」には諸説あり、本当のところは分からないのですがこのような説もあるということで…。うーん、呪いというものは恐いですね。。。
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江戸城
2006-12-30 17:00:00
あたかも京都にいるような錯覚を覚えるなか、なんとあの正月特番ドラマで御馴染みの場所に到着!松の大廊下があったところです。
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~説明板より~
赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件が元禄14年(1701)にあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。
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ドラマ「忠臣蔵」で有名な松の大廊下跡。今年もあるみたいですが、いつもの「忠臣蔵」とは違う設定だとか。ちょっと気になります。ポツネンと碑が立っていました。切ないですね。。
そんな松の大廊下跡付近なのですが、景色がため息がでるほどすっごいキレイですよ。
紅葉につられて、上り坂の方へ。富士見多聞というところを通りました。
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~説明板より~
「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万一に備えられていました。
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本丸を振り返るとこのような図です。整備されていますね~。
そうだ、京都行こうなんて思わなくても、東京のど真ん中でこんなに素敵な秋の景色が楽しめるのですよ。しかもタダで。歴史も勉強できて、季節も楽しめる江戸城跡、あなどれがたし。。何気に外人さんの観光客が多い気がしたんですが、そのせいでしょうか。今まで素通りしてきたことをもったいなく思いました。更に先へ行くと、石室があります。
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~説明板より~
抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の坂が使われています。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
なんだか防空壕みたいですね。ここでもやはり、石の積み重ねがとてもキレイですね。次回は、江戸城の天守閣にやっと到着しますー。
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江戸城
2006-12-28 17:00:00
大手中之門は、石垣修復工事をしていたためこんな感じでした。

工事中

この石垣、本当にビッシリと入っていますよね。中とかもちゃんと入っているのかも気になってしまいます。ココらへんは、書院門跡というらしいです。この横の坂を上ると、皇居東御苑、旧本丸です。面積は約21万㎡あるそうですよ。
この~木なんの木?というあの曲が聞えてきそうなくらいののびのびとした空間!目の前に建物がないからか、東京駅から徒歩で20分くらいの大都会で空がこんなにも臨める空間ってなかなか貴重ですよね。ランチとか食べれてしまう場所なんですよ。
皇居内でランチ…なんて贅沢。あ、そういえば一緒にいった友人は皇居売店で売っていた「チョコもなか」買って食べていた。「皇居でチョコもなか食べた~」とか、すごいありえないと思うんですけど、あるんですね実際。ていうか、チョコもなかは皇居売店さんのセレクトなんでしょうか?この手前から表、中奥、大奥という順に設置されていたそうです。表では政治が行なわれる場所で、中奥は将軍の住居、大奥は将軍の奥方やそれに仕える女性の生活空間だったそう。ここらであの大奥のドロドロ愛憎劇が繰り広げられていたりしたのかしら。そんな事を思いながら次のスポットへ。
富士見櫓です。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田ニ重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたちいわれています。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この富士見櫓は、現在の皇居を参観するときに、表側が見えるようです。皇居の参観には通常は手続きを要しますが、12月23日の天皇誕生日と1月2日の新年の二日のみ手続きなしで入ることができるそうです。
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江戸城
2006-12-26 17:00:00
同心番所です。今で言う派出所みたいな、そんなイメージでしょうか。ここで尾張・紀伊・水戸の御三家以外の大名は検問を受けたそうです。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当たっていました。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここは百人番所です。ながっ!
前からみた図 後ろから見た図
ハッキリ行って、先ほどの番所の2、3倍ありますよ。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
本丸と二の丸へ通じる要所である大手三の門の前に設けられた番所です。鉄砲百人組と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎の4組みが昼夜交代で詰めていました。各組には同心が100人ずつ配属されていました。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
常に100人で24時間体制だったとは。100人乗っても大丈夫~な強度の建物なのでしょう。余談ですが、新宿に百人町というところがあるんですが、この百人番所がどうやら由来になっているとか。なんでも、この百人番所の鉄砲部隊の組屋敷があったんだそうです。ハットリくんの先祖でおなじみ?の服部半蔵率いる伊賀組がそれらしいです。
韓流ブームによりいまや日本のコリアンタウンである大久保は、昔は武士(忍者?)の町だったのですね。近くにある皆中稲荷神社では「鉄砲組百人隊行列」というイベントもあるそうです。ちなみにこの神社は、鉄砲隊がお参りして練習したら百発百中だったというところから「皆中(みなあたる)」と称えられ、現在では「ギャンブルの神様」としても有名だそう。
最後が大番所。
なんだか一番のほほんとしたスペース。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。前の坂を上がったところが本丸の入口で、中雀門がありました。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今の警察でいうと警視庁総監とかそういうのでしょうか?キャリア組みはぜったいこちらなんでしょう。
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江戸城
2006-12-20 17:00:00
遂にたどり着きました。江戸の城跡です。今の「皇居東御苑」があるところに昔の江戸城がありました。江戸城に入るには、まず入口で「入園票」というお札を貰って入ります。入口の「大手門」は、江戸城の正門だったところです。
ここから皇居東御苑内へ入ります。意外に狭いし、曲るし…と文句を言いそうになったんですが、これは、外部からの敵が攻めて来た時に一気に入ってこられるのを防ぐために、このような構造になっているのだそうです。第一門を入ると、枡形の空き地があり、その空き地を右に曲ると第二門になります。このような門のつくりを枡形門と言ったそうです。さすが、考えられますね~。と、ちょっと待って!
しゃちほこ…?発見。これは「旧大手門渡櫓の鯱」といい、江戸時代に造られ、昭和になって戦争で大手門が焼失した時まで飾られていたものだそうです。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
1945年(昭和20年)4月、戦災で焼失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で焼失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。今の大手門渡櫓は、1968年(昭和43年)に再建されたものです。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
観光気分でパチリ。
右:三の丸尚蔵館。何もやっていなかったです。この先には宮内庁病院があるらしい。
中:いきなりの赤いポスト。なぜこんなところに…。隣の紅葉がエエ感じです。
左:こっちの先には、皇居警察本部があるんだそうな。昔で言う番所というやつでしょうか。
ちなみにこの近くに売店があります。そこでは飲食物が売っていたり、皇居グッズが売っていたりします。皇居グッズなんて、巷じゃそう簡単には買えないですよ!雅子さまのお印「はまなす」の絵が入った小箱を購入しました。ネクタイピンとかおちょことかもありましたので、ご家族にお土産を買うのもいいですね。そのほかにも、来年のカレンダーや、江戸時代の大名地図や、なかなか興味深い一品も。次は各番所です。
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江戸城
2006-12-17 17:00:00
江戸博の続きですが、秋の江戸城へ行ってきましたので、そちらを先に。。行く前に「大江戸骨董市」が有楽町の東京国際フォーラムにて開催されていて、「大江戸」と名がつくのでもちろん行ってみましたよ~。しかし骨董って高いですね。。結局いいものも買えずにお店をあとにして、地下鉄で大手門駅まで。出口を間違ったのか?イマイチ江戸城あたりが分からず苦労しました。大阪城くらいに残っていてくれれば、見つけやすいんだけどなぁ。。まず最初にであったのが「和田倉橋」でした。
このポーズを決めたおしゃまな外人さんのお子様がいるのが「和田倉橋」です。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
~説明板より~
この橋を、和田倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛にために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。敬重7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」は橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長12年の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名づけられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。
和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されています。警備は、諸代大名で二万石から三万石の者が担当していました。この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。
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見事なお庭が見えてきました。と、ここまで来て気付きました。ここは江戸城跡入口じゃない!と。その先には「和田倉噴水公園」がありあました。現在の皇太子殿下のご成婚記念として作られたようですよ。場所を間違えて、あまりにも慌てていたために公園の写真を撮るのを忘れていました。。。
公園を出て目の前、こちらが今日の目的地です。
これこれ!城っぽい!(笑)後で調べたら、「桜田ニ重櫓」だと判明しました。「巽櫓」ともいうそうです。前方、お堀の方へ突き出した部分があるんですが、そこは「石落とし」といって石を落として敵が堀をよじ登ってくるのを防いだところだそうです。また、小さい窓をいくつか確認できるのですが、これは「狭間(さま)」といい、ここから弓や鉄砲を打つための窓だったそうです。
次回、江戸城探索をアップしまっす!
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江戸城
2006-12-13 17:00:00
「寛永の町人地」
江戸時代初期、寛永年間(1624~1629)の日本橋北詰付近の町の様子を復元したジオラマが展示されています。とても細かく精巧に作られています。この時代の江戸は、戦国時代の風習をどこかに残しつつも、新しい城下町として活気に満ち溢れていたそうです。こんなに見渡しが良くて、今の日本橋界隈とはまったく想像がつきません。
「錦絵草子問屋 泉屋市兵衛」
江戸時代に実在した版元で、浮世絵版画や娯楽系の絵入り和綴じ冊子が扱われていたそう。今でいうと、古美術商つき書店というスタイルなのでしょうか。神田界隈にありそうなお店ですね。俗に浮世絵には、肉筆画と版画のふたつがあります。ここで売られる浮世絵版画(錦絵)は、何枚もすって大量生産できる木版画です。庶民にも広く楽しめるものがお店に並んでいたのですね。ちなみに、肉筆画とは絵師が紙や絹に描いた直筆画とされ、同じものはふたつとない貴重品のことを指します。テレ東の「開運!なんでも鑑定団」あたりでよく安河内先生が鑑定しているのがそれですね。
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