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桜が咲き始めた上野へ:上野恩賜公園付近
2007-03-17 17:00:00 Category : 上野・谷中
上野公園の敷地は、江戸時代ごろは徳川家の菩提寺である東叡山寛永寺があったそうです。明治6年に起きた戊辰戦争で、上野東照宮、清水観音堂、霊廟以外は焼け野原になってしまいます。その跡地には大学病院の建設が予定されていましたが、オランダの軍医であったボードワン博士が「自然の残る由緒ある土地なので公園にした方が良い」と提案され、上野公園が造られました。噴水池の辺りは、本堂の「根本中堂」が建っていたそうです。
正岡子規球場と句碑
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~説明板より~
春風や まりを投げたき 草の原
正岡子規(1867~1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。
平成18年7月
台東区・台東区教育委員会
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摺鉢山古墳
気にしていなければ通り過ぎてしまうくらいひっそりとした古墳です。この階段を登ると普通に小さな公園があります。プチお花見を楽しむ人で賑わっていました。
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~説明板より~
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名づけられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円墳式の古墳と考えられている。
現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23m。後円部の道路との比高は5mである。
丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
五條天神の創立年代は不明であるが、堯恵法師は『北国紀行』になかで、文明19年(1487)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
契りきて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永8年(1631)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(1688~1703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
平成6年3月
台東区教育委員会
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両大師
天保元年(1644)に寛永寺開山の慈眼大師天海の像を安置する堂として建立されたそうです。その後に比叡山十八世座主慈恵大師(元三大師とも呼ばれる)を合祀したことから両大師と呼ばれるようになったそうです。写真右の「旧寛永寺本坊表門」は上野戦争でも焼け残り、寛永期の建物として国の重要文化財に指定されています。切妻造り、本瓦葺き、潜門を脇につけた薬医門という様式であり、東京大学の赤門と同じ型だそうです。東京国立博物館が改築されるまでは、正門として使われていたそうです。
両大師から先に行くと、空き地にゴロゴロと燈籠がありました。奥のものとか…もうバラバラなのですが…このままで大丈夫なのでしょうか。「慶安5年 辰年」のもののようです。
近くにあった寒林院というところに同じような燈籠がありました。空き地のものが少しかわいそうな気がしてきました…。
「OBAKE-DORO」とその付近です。その付近にある燈籠に比べると、その大きさはよくわかります。
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~説明板より~
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻印し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北條氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大灯篭とともに、日本三代燈籠に数えられる。
平成8年7月
台東区教育委員会
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時の鐘in上野公園
上野精養軒の横には「時の鐘」があります。つい先日、浅草の「時の鐘」を見てきたばっかりです。今でも指定された時間に鐘の音が鳴らされているようです。時計がある時代にも、時間の目安になって良いですよね。
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~説明板より~
時の鐘
台東区上野公園4番
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。
初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山銅鐘」、反対側には、「天命七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
現在も鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回昔ながらの音色を響かせている。
なお、平成8年6月、環境庁の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。
平成8年6月
台東区教育委員会
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上野精養軒の前には大仏山という小さな山があり、「大佛パコダ」という薬師三尊が祀られています。右写真は、顔だけが残ってしまった上野大仏です。顔だけが無傷で残ったので、災難よけの霊力があるといわれているそうです。そして最近では、顔だけしかないので「もう落ちない」という意味から合格祈願の大仏さまでもあるようです。
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~説明板より~
大仏パコダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光・月光二菩薩(旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革
寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃青銅の大仏に改鋳され。
大正12年、大震災で破損のため撤去する。
パコダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
昭和42年7月吉日竣工
東叡山 寛永寺
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~説明板より~
上野大仏略記
寛永8年(1631)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
青銅大仏
明暦・万治の頃(1655~1660)木食造浄雲師により銅佛に改められた。
仏殿
元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立された。
改鋳
天宝2年(1841年)火災に遭い、天宝14年、末孫堀丹後守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
大正12年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦に献納された。
昭和47年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
昭和47年春悲願
註、「上野大仏略史」は清水観音堂にあります。
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花園神社
大仏山を降りて、公園方面へ歩いていくと左手に見えてきます。上野公園に桜を見にきたついでに寄ったと思われるカップルが多かったです。
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~説明板より~
花園稲荷神社の御縁起
御祭神 倉 稲 魂 命(うがのみたまのみこと。又の御名は豊受姫命伊勢外宮の大神)
大祭 4月11日
講祭 11月11日
祭日 毎月11・牛の日
御創祀(いわれ)
鎮座の年月・由緒は不明ですが、往古より此地にあり「穴の稲荷」または忍岡稲荷といわれました。
承応3年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この付近より北西1体が寛永寺のお花畑であったので明治6年は謎の稲荷と改名し昭和3年現社殿にお遷ししました。
旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。
安産の神とも云い、特に縁談、金談の願掛けにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。
花園稲荷神社
上野観光連盟
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